手を貸すか貸さないか
道をトロトロ歩いていると、前方に自転車の後輪を持ち上げて引いているお兄さんがいた。
パンクかなー、でも今修理キット持ってないなー、がんばれー
なんて思って交差点で信号が変わるのを待っていると、お兄さんは座り込んで自転車をいじり始めた。
パンクじゃなくてチェーンが外れている。
事情が変わった。
パンクは無理だけどチェーンなら直せる。
お兄さんは手こずっている。
迷う。
声をかけるか。
でも余計なお世話とか思われるかな?
とか考えているうちに、後輪を持ち上げて私と違う方向の横断歩道を渡って行ってしまった。
あー。
手を貸せば良かった。
別に悪い事をしたわけではないのに、何となく罪悪感に駆られる。
自分が手を貸せる状況になった瞬間に、後悔しない選択肢は手を貸す事しかなくなったのだ。
これからは手を貸せる人には手を貸そうと思った。
多分思っただけ。
お腹は腹痛によって鍛えられるのか。
大学生の頃の話。
インドへの二週間の初バックパッカー旅行を終えて帰宅した私は腹痛で悶え苦しんでいた。
お腹が痛いのだ。とても。
どのくらい痛いのかというと、すごく痛い。
死ぬほど腹が痛いという事は何度もあったが、腹が痛くて死ぬと思ったのはあの時だけだ。
腹痛で夜中眠れずに呻き声を上げていた私はふと「あ、死ぬ」と思った。
思っただけだった。
お腹の中で宇宙の破壊と創造が繰り返されているような。ブラックホールで締め上げられビッグバンでぶん殴られる。お腹の中で最終兵器彼女のクライマックスが延々と繰り広げられている。
ボキャブラリー不足で上手く表現できないが一言でいうとこうだ。
すごく痛い。
すごく痛いお腹が3日続いた。
そして止まらない。
下痢が。
とめどなく出てくる。それこそ源泉かけ流しのように。
口に入れた飲み物がボブスレーの如く尻穴から飛び出してくる。
我先にとお菊へ向かう。
尻を介して飲み物をトイレに運ぶだけの道具に成り下がっていた。
ボブスレーは10日続いた。
10日間のボブスレーの間に私は5キロ痩せた。
ここ数年の身体測定で1キロたりとも上下しなかった私の体重が5キロ減った。
いつ測っても55キロの私の体重が50キロになっていた。
ダイエットなら大成功だがそうではない。
やつれているだけだ。
骸骨みたいになっていると友人に言われた。
そこで初めて鏡を見た。
やつれた顔でニヤニヤしてる奴がいた。
やつれかたが尋常ではない。
あいつあんぱんやってんだぜと言われたら信じただろう。
そしてこの時期、大学生の間で麻疹が流行っていた。
多くの大学で在学生を対象に麻疹の予防接種を実施していた。
私の大学でもそうだった。
しかし私は友人に止められた。
お前は受けるなと。
今予防接種を受けたら麻疹にかかると。
確かにそうだ。
予防ではなく感染する。
当時の私にはその自信があった。
予防接種ではなく予防感染だ。
それはもはや予防ではない。
予防ではない何かだ。
それ程までに体力が低下していた。
予防接種を受けたつもりが感染して意気揚々とウイルスを撒き散らしながら帰路に就く事になるだろう。
いやしかし1度麻疹にかかっておけば免疫ができ・・・ないな。
実際感染するのかは知らんけど。
そしてボブスレーが10日間続いた時私はこう思った。
病院に行こう。
お医者様は言った。
ただの腹痛だと。
宇宙創造は繰り広げられていないと。
温めたポカリを飲むと良いと。
そして私はポカリ信者になった。
思考を書き出してみて分かったこと
思考速度というのは非常に速い。
1つの事を考えてるつもりでも、その裏で別の思考が進行している。
さらにその下に潜在的な無意識の思考があるっぽい。
そのいくつもの裏の思考と無意識の思考が結びついて、表の思考に+αする思考や、表の思考を否定するものが急に生まれたりする。
この現象が私のタイピングより遥かに速い為、表の思考をそのまま書き出す事が非常に難しい。書き出している間に表の思考がどんどん塗り替えられていく。提案・検証・追加・否定、こういったものがノンストップで繰り返される事により、書き出している表の思考と、その時の実際の表の思考に差異が生じる。そしてその差異が裏の思考にもたらされたものの場合、表の思考に差異が生まれた過程を書き出すことができない。裏で無意識に組み立てられたロジックの結果が急に飛び込んで来る為、過程が説明できないのだ。その過程を探しているうちにもどんどん思考は進む。つまりこういう事だ。ブログは頭の中を整理してから書け。
思考をそのまま書き出してみる。「怒り」
怒りとは何なのか考えてみる。先ず人はどんな時に怒るのか。自分の事で考えると、例えばファミレスで店員がテーブルに水を「ドン!」と置いた時。イラっとする。静かに置けよと。なんで静かに置けないんだろう。多分その店員は「ドン!」と置くことが悪い事だと思っていない。そもそも静かに置こうと思っていない。もしかしたらいつもは静かに置いてるけど忙しくてそこまで気が回らなくてうっかりしただけかもしれない。まぁそれは置いておいて。じゃあ私はその店員の行為に何故イラっとしたのか。それは私が物は静かに置くものだと思っているから。特にガラスのコップなんかは割れるかもしれないし。それが普通であり間違っていないと思っているから。その私にとって当然の行為ができていないことに腹が立っている。なぜそんな当然の事が出来ないのかと。少し考えれば分かるだろと。コップを置くときに大きな音を立てれば客が不快な思いをするのは当然だろと。多分こういう事だと思う。じゃあ私が怒っていることに正当性があるのか。私は物は静かに置くべきだと思っているが、それは私が勝手に思っている事であり、他人にとってはそうではないかもしれない。この店員にとっては大きな音を立てるという事は何も悪いことではなく全く気にも留めない事なのだとしたら。むしろお前何言ってんの?的な感覚なのだとしたら。私が怒っていることに正当性はなくなるのではないのだろうか。相手は自分にとってごく普通の事をしている。しかし私はその相手のごく普通が私にとってはごく普通ではないから腹を立てている。私が勝手に作った私の価値観に従って勝手に腹を立てているだけだ。つまり相手と私の価値観の相違によって怒りが生まれたわけだ。私は店員が「ドン!」とコップを置いた事に腹を立てたが、突き詰めていくと私と店員の価値観のズレに腹を立てたわけだ。じゃあよく怒っている人というのは他人と価値観がずれまくっているのか。部下を叱る上司は?叱ると怒るは違うか。却下。コンビニで店員に「タバコ」とだけ伝えて、マルボロを持ってきた店員に「タバコっつったらマイセンの8だろうが。常識で考えろ」といっているおっさんは?明らかにおっさんがおかしい。この場合おっさんはどうして怒っているのか。まず考えられるのは、相手に対して理不尽に怒りをぶつけることにより優越感に浸りかつストレスを解消している。これはあると思う。しかしこれは今の議題とずれているので今は考えない。本当におっさんが怒っている場合。多分実際いるとは思う。じゃあなんでこのおっさんは怒っているのか。さっきのファミレスを考慮すると、店員とおっさんとの間に価値観のズレが生まれたのだろう。じゃあその価値観とは何か。おっさんにとっては「タバコ=マイセンの8」だが店員にはその認識はない。ここだろう。「タバコ=マイセンの8」というおっさんにとっては当然の事を店員が理解していない事に腹を立てているのだ。しかし周りから見たら明らかにおっさんがおかしいと思うだろう。「タバコ=マイセンの8」はどう考えても一般常識ではない。それはおっさんが勝手に決めた事だ。おっさんだって少し考えれば分かるだろう。タバコとだけ伝えても数あるタバコの中のどれなのかが分からない事くらい。「そうだよね。タバコだけじゃ分かんないよね。ごめんね」となるだろう。我らの常識で考えれば。おっさんは別の世界線に生きているのかもしれない。しかしおっさんはそうはならず現に怒っているわけだ。自分がおかしいと認めずに。つまり「タバコ=マイセンの8」という自分の価値観が絶対的に正しく、そうではない店員がおかしいと本気で思っているのだ。きっとここだ。怒る人と怒らない人の差。自分の考えや価値観が絶対的に正しいと思っているかどうか。ただ単純な価値観の相違ではなく、相違が生じた時に自分の価値観が絶対的に正しいと思っているかどうか。価値観の相違が生じた時に柔軟に相手の価値観とすり合わせをする事ができるかどうか。つまり自分の価値観に絶対的な自信を持っている人ほど怒りやすいということなのだろうか。自分の価値観に絶対的な自信があるという事は自分に自信があるという事だろう。じゃあ自分に自信がある人ほど怒りやすいのか。違う気がする。自分に自信がある人はむしろあまり怒らない気がする。相手と意見が違ってもどっしりと構えているイメージだ。怒るとかはしない。気がする。ダメだ。分からなくなってきた。おっさんまで話を戻そう。おっさんは何故怒ったのか。さっきは価値観の相違だと思った。間違ってはいないと思う。しかし少しズレがある気がする。価値観が違うだけ、相手と価値観が違ってもそれが分からなければ怒りようがない。つまりおっさんと店員の間に価値観の相違があることが露呈したことが怒りの原因なのだろうか。しかし、価値観の相違が露呈した事が怒ることに繋がるのか。価値観が違うという事自体に対しては怒らないだろう。おっさんは「マイセンの8」を持ってこなかった事に対して怒っているのだ。つまり店員が自分の期待した行動を取らなかった事に対して怒っているのではないだろうか。相手に期待をしている。それを裏切られたから。自分自身の価値観に基づいて相手がするべき行動を想像して相手がその通りの行動をしなかった事に腹を立てているのだ。ファミレスのコップの場合はどうだろうか。私はコップを静かに置く事が当然だと思っているから、店員がコップを静かに置く事を期待していて、かつそれは私の絶対的に正しいという価値観からきていて当然の行為であるという前提がある。しかし店員がその私が持っているごく当たり前な期待を裏切った。それに対して私が腹を立てた。期待を裏切られた事に腹を立てた。こういう事か。じゃあ私が期待をしていなかったら。私はコップを静かに置く事が当然だと思っているが、店員にそれを期待していなかったら。この店員はきっと静かにコップを置いてくれないだろうと。そして「ドン!」と置く。やはりちょっとイラっとする。しかしその心構えがないよりはイラっとしない。完全になくならないのはやはり私にとって静かに置くという事が絶対的に正しく、期待しないようにしても心のどこかで期待してしまっているのだろう。立ち位置によらず当たり前だと思っているから期待を完全に取り除くことができないのだ。
ダメだ。書くことに疲れた。そして自分の思考をそのまま書き出すというのは思った以上に難しい。書き出す過程でどうしても補正をかけてしまう。自分が書き出している時には既に思考はその遥か先まで行っていて、その思考を考慮したものを書こうとしてしまう。そして読み易いように多少いじってしまう。そしてめちゃくちゃ時間が掛かる。書き慣れていない事もあるが、これを書くのに1時間以上かかっている。実際の思考時間は10分そこそこだろう。実際私の思考はもう遥か先まで行っている。コップの話から私の中国に留学していた時の経験の話になり、マイノリティとマジョリティの話になり、おっさんの話に戻り、友人の具体例に移り、DVや不良の話が入ってきて、そして行き詰って思考が停止している。
そう行き詰っているのだ。結論が出ていないのだ。もう疲れたのだ。ここで終わるのだ。ぶん投げるのだ。無理矢理まとめるのだ。こんな感じなのだ。
状況に応じた自分の価値観に基づき世界とはこうあるべきだという期待があり、しかし世界が自分の期待通りの結果をもたらさない事に怒っている。
つまり
自分の思い通りにならない事があると怒る。
よく怒る人は、何でも自分の思い通りになる、なるべきと思っている。
あまり怒らない人は、自分の思い通りにならない事の方が多いと思っている。
とりあえずこれで。
あーしょうもな。
誰か良い答えを下さい。
週一で幸福感をもたらしてくれるそれ
月曜日から連想するもの。
そうですね。
ジャンプです。
月曜日と聞けばパブロフの犬が如くジャンプを思い浮かべるはずです。
10人に月曜日といえば?と問えば13人がジャンプと答えます。
聞いてもない人まで答えてきます。
こぞってジャンプと連呼してきます。
月曜日はまた一週間の仕事が始まるので憂鬱極まりないですが、仕事終わりにはジャンプが待っています。
人生で一番の至福を感じるのはジャンプを読んでいる時だと言っても過言ではありません。
そしてジャンプを読むときは必ずポテチのり塩味を食べます。食べながら読みます。
ポテチのり塩味を食べながら無心でジャンプを読む。
これ以上の贅沢はありません。
異論は認めます。
週に一回定期的に幸福感を得られる。
週一で全人類に平等に幸福を運んできてくれるジャンプ。
偉大です。
頭が上がりません。
合併号の次週は絶望です。
圧倒的強者がいるという事に対するモチベーション
オリンピックやってますね。
私はスノボーが好きなので、平野歩夢君とショーン・ホワイトの激戦をウキウキしながら見たかったのですが、仕事でリアルタイムで見られなかったのが残念です。
こういう時期になると、「感動をありがとう」「勇気を貰った」というフレーズが飛び交いますが、こういったフレーズに非常に違和感を覚える私はどうやら少数派のようです。
オリンピックの様な国を挙げた世界大会的なものを見ていると、ふと思う事があります。明らかに1位になることができない実力の選手達のモチベーションはどこにあるのだろうかと。趣味の延長線上でオリンピックに出場できて記念受験的なノリで出場しているならば話は分かるのですが、大多数の選手はそうではないはずです。人生を賭けて最大限の努力を積み重ねその結果掴み取った切符なのだと思います。しかしその舞台にどう足掻いても実力では到底敵わない圧倒的強者がいるという事実。金メダルを取れる可能性のある選手は当然金メダルを目指すのでしょうが、そうでない選手達は?今は敵わない、でもいつかは絶対に頂点に立ってやる。そういう気持ちなのであれば良く分かるのですがそうではないと思います。そうなると目指すところは少しでも良い結果、できれば入賞、メダルが取れれば万々歳。きっとそういった気持ちなのだと思います。人生を賭けて競技に臨みどこまで上り詰められるかの挑戦。しかし確実に頂点には立てないという現実。やるからには勝ちたいはずです。でも決して叶う事はない。その現実を受け入れながらも競技に打ち込む。そのモチベーションはどこにあるのかと。どういった気持ちなのだろうかと。決して選手達を馬鹿にしているわけではありません。何かに本気で打ち込める人は結果によらず尊敬に値すると思っています。私がそういう人間ではないから。だからこそただ単純に疑問に思ってしまうのです。
しかし、頂点に立つ事が目的ではなく、彼等にとって競技に打ち込む事が日常で、そこに身を置き上を目指す事が当然の行為なのだとしたら、私の疑問は非常にナンセンスなものですね。
凡人が何を偉そうな事言ってんだという感じですが、そんなしょうもない事を考えながらオリンピック見てます。
よし、やるか。
ここは、私の日々の思考や出来事・過去の経験・趣味・漫画・好きなポテチの味・興味など、非生産的であろう内容を好き勝手垂れ流すだけのブログです。
そもそも何故ブログを始めようと思ったのか。
以前から日記も兼ねて自分の思考をアウトプットする意味でもブログをやってみようと思っていましたが、すこぶるめんどくさがりなのでめんどくさがって始められずにいました。
きっかけはビットコインでした。
去年の12月、゙ビットコインが最高値を更新゙というニュースを見てビットコインについて調べ、ビットコインFX(BTCFX)で荒稼ぎをしている人達を知り、その日に仮想通貨取引所を開設、翌日BTCFX開始、4日間で資産4倍、その30分後にロスカを食らい利益殲滅、さらに30分で10万円の損失を出して意気消沈。
主戦場を現物に移し、約1ヶ月で含み益250万円、その1ヶ月後含み損150万円と1ヶ月で資産を400万円溶かし脳死しているうちに現在含み損50万円まで回復。ここまで約2ヶ月です。
さて、本題のブログを始めるきっかけについて。
この2ヶ月仮想通貨の情報を貪る過程で、ブログ収入を得ているブロガーが私が思っているよりもはるかに多いことを知りました。そして小遣い程度ならすぐに稼げるようになるという旨い話にまんまと乗せられてやったというわけです。
しかしいざ始めるとなるとどうすればいいのかが分からない。どういうブログでどういう記事をどのくらいの頻度でどういう風に書けばいいのかが分らない。そもそも私がまともな文章を書けるかどうかが分らない。もう何が分からないのか分らない。分らなすぎて分からないがゲシュタルト崩壊寸前。思考回路はショート寸前。てかとりあえず何か書けばいいんでしょ。副収入はとりあえず横に置いといて書くことに慣れればいいんでしょ。結果は後から付いてくる的な。この機械仕掛けの四角い箱に溢れ出る思いの丈をぶつければいいんでしょ。よし、やるか。
てな具合でこのブログを始めました。