チリツモ!~塵も積もればゴミの山~

チラ裏の如く書きたい事を書くだけの非生産的なブログです。

思考をそのまま書き出してみる。「怒り」

怒りとは何なのか考えてみる。先ず人はどんな時に怒るのか。自分の事で考えると、例えばファミレスで店員がテーブルに水を「ドン!」と置いた時。イラっとする。静かに置けよと。なんで静かに置けないんだろう。多分その店員は「ドン!」と置くことが悪い事だと思っていない。そもそも静かに置こうと思っていない。もしかしたらいつもは静かに置いてるけど忙しくてそこまで気が回らなくてうっかりしただけかもしれない。まぁそれは置いておいて。じゃあ私はその店員の行為に何故イラっとしたのか。それは私が物は静かに置くものだと思っているから。特にガラスのコップなんかは割れるかもしれないし。それが普通であり間違っていないと思っているから。その私にとって当然の行為ができていないことに腹が立っている。なぜそんな当然の事が出来ないのかと。少し考えれば分かるだろと。コップを置くときに大きな音を立てれば客が不快な思いをするのは当然だろと。多分こういう事だと思う。じゃあ私が怒っていることに正当性があるのか。私は物は静かに置くべきだと思っているが、それは私が勝手に思っている事であり、他人にとってはそうではないかもしれない。この店員にとっては大きな音を立てるという事は何も悪いことではなく全く気にも留めない事なのだとしたら。むしろお前何言ってんの?的な感覚なのだとしたら。私が怒っていることに正当性はなくなるのではないのだろうか。相手は自分にとってごく普通の事をしている。しかし私はその相手のごく普通が私にとってはごく普通ではないから腹を立てている。私が勝手に作った私の価値観に従って勝手に腹を立てているだけだ。つまり相手と私の価値観の相違によって怒りが生まれたわけだ。私は店員が「ドン!」とコップを置いた事に腹を立てたが、突き詰めていくと私と店員の価値観のズレに腹を立てたわけだ。じゃあよく怒っている人というのは他人と価値観がずれまくっているのか。部下を叱る上司は?叱ると怒るは違うか。却下。コンビニで店員に「タバコ」とだけ伝えて、マルボロを持ってきた店員に「タバコっつったらマイセンの8だろうが。常識で考えろ」といっているおっさんは?明らかにおっさんがおかしい。この場合おっさんはどうして怒っているのか。まず考えられるのは、相手に対して理不尽に怒りをぶつけることにより優越感に浸りかつストレスを解消している。これはあると思う。しかしこれは今の議題とずれているので今は考えない。本当におっさんが怒っている場合。多分実際いるとは思う。じゃあなんでこのおっさんは怒っているのか。さっきのファミレスを考慮すると、店員とおっさんとの間に価値観のズレが生まれたのだろう。じゃあその価値観とは何か。おっさんにとっては「タバコ=マイセンの8」だが店員にはその認識はない。ここだろう。「タバコ=マイセンの8」というおっさんにとっては当然の事を店員が理解していない事に腹を立てているのだ。しかし周りから見たら明らかにおっさんがおかしいと思うだろう。「タバコ=マイセンの8」はどう考えても一般常識ではない。それはおっさんが勝手に決めた事だ。おっさんだって少し考えれば分かるだろう。タバコとだけ伝えても数あるタバコの中のどれなのかが分からない事くらい。「そうだよね。タバコだけじゃ分かんないよね。ごめんね」となるだろう。我らの常識で考えれば。おっさんは別の世界線に生きているのかもしれない。しかしおっさんはそうはならず現に怒っているわけだ。自分がおかしいと認めずに。つまり「タバコ=マイセンの8」という自分の価値観が絶対的に正しく、そうではない店員がおかしいと本気で思っているのだ。きっとここだ。怒る人と怒らない人の差。自分の考えや価値観が絶対的に正しいと思っているかどうか。ただ単純な価値観の相違ではなく、相違が生じた時に自分の価値観が絶対的に正しいと思っているかどうか。価値観の相違が生じた時に柔軟に相手の価値観とすり合わせをする事ができるかどうか。つまり自分の価値観に絶対的な自信を持っている人ほど怒りやすいということなのだろうか。自分の価値観に絶対的な自信があるという事は自分に自信があるという事だろう。じゃあ自分に自信がある人ほど怒りやすいのか。違う気がする。自分に自信がある人はむしろあまり怒らない気がする。相手と意見が違ってもどっしりと構えているイメージだ。怒るとかはしない。気がする。ダメだ。分からなくなってきた。おっさんまで話を戻そう。おっさんは何故怒ったのか。さっきは価値観の相違だと思った。間違ってはいないと思う。しかし少しズレがある気がする。価値観が違うだけ、相手と価値観が違ってもそれが分からなければ怒りようがない。つまりおっさんと店員の間に価値観の相違があることが露呈したことが怒りの原因なのだろうか。しかし、価値観の相違が露呈した事が怒ることに繋がるのか。価値観が違うという事自体に対しては怒らないだろう。おっさんは「マイセンの8」を持ってこなかった事に対して怒っているのだ。つまり店員が自分の期待した行動を取らなかった事に対して怒っているのではないだろうか。相手に期待をしている。それを裏切られたから。自分自身の価値観に基づいて相手がするべき行動を想像して相手がその通りの行動をしなかった事に腹を立てているのだ。ファミレスのコップの場合はどうだろうか。私はコップを静かに置く事が当然だと思っているから、店員がコップを静かに置く事を期待していて、かつそれは私の絶対的に正しいという価値観からきていて当然の行為であるという前提がある。しかし店員がその私が持っているごく当たり前な期待を裏切った。それに対して私が腹を立てた。期待を裏切られた事に腹を立てた。こういう事か。じゃあ私が期待をしていなかったら。私はコップを静かに置く事が当然だと思っているが、店員にそれを期待していなかったら。この店員はきっと静かにコップを置いてくれないだろうと。そして「ドン!」と置く。やはりちょっとイラっとする。しかしその心構えがないよりはイラっとしない。完全になくならないのはやはり私にとって静かに置くという事が絶対的に正しく、期待しないようにしても心のどこかで期待してしまっているのだろう。立ち位置によらず当たり前だと思っているから期待を完全に取り除くことができないのだ。

 

ダメだ。書くことに疲れた。そして自分の思考をそのまま書き出すというのは思った以上に難しい。書き出す過程でどうしても補正をかけてしまう。自分が書き出している時には既に思考はその遥か先まで行っていて、その思考を考慮したものを書こうとしてしまう。そして読み易いように多少いじってしまう。そしてめちゃくちゃ時間が掛かる。書き慣れていない事もあるが、これを書くのに1時間以上かかっている。実際の思考時間は10分そこそこだろう。実際私の思考はもう遥か先まで行っている。コップの話から私の中国に留学していた時の経験の話になり、マイノリティとマジョリティの話になり、おっさんの話に戻り、友人の具体例に移り、DVや不良の話が入ってきて、そして行き詰って思考が停止している。

 

そう行き詰っているのだ。結論が出ていないのだ。もう疲れたのだ。ここで終わるのだ。ぶん投げるのだ。無理矢理まとめるのだ。こんな感じなのだ。

 

状況に応じた自分の価値観に基づき世界とはこうあるべきだという期待があり、しかし世界が自分の期待通りの結果をもたらさない事に怒っている。

 

つまり

 

自分の思い通りにならない事があると怒る。

よく怒る人は、何でも自分の思い通りになる、なるべきと思っている。

あまり怒らない人は、自分の思い通りにならない事の方が多いと思っている。

 

とりあえずこれで。

あーしょうもな。

誰か良い答えを下さい。